「なにわのみや1400 PROJECT」の舞台は、大阪市の中心地に位置する中央区法円坂の一帯に広がっている「史跡難波宮跡附法円坂遺跡(難波宮跡)」です。
この場所は7世紀中頃、飛鳥から難波へと遷都され「難波宮(なにわのみや)」と呼ばれました。難波宮は政治や経済、文化の拠点となっていました。
「なにわのみや1400 PROJECT」の舞台は、大阪市の中心地に位置する中央区法円坂の一帯に広がっている「史跡難波宮跡附法円坂遺跡(難波宮跡)」です。
この場所は7世紀中頃、飛鳥から難波へと遷都され「難波宮(なにわのみや)」と呼ばれました。難波宮は政治や経済、文化の拠点となっていました。
難波宮発掘の立役者
「山根徳太郎博士」
「難波宮(なにわのみや)」は1954年からの発掘調査によって存在が明らかになりました。山根徳太郎博士たちの尽力により、歴史的に貴重な場所を今の時代に残すことが出来ています。
復元された原寸大の史跡
現在は難波宮跡内に復元された原寸の大極殿(だいごくでん)の基壇があり、当時のスケール感を感じさせてくれます。
難波宮の歴史を時代に分けてご紹介します。
645年の乙巳(いっし)の変により孝徳天皇が即位、「大化の改新」と呼ばれる政治改革が始まり、都は飛鳥から難波宮にうつされました。
難波宮は北から内裏(天皇が居住する空間)、朝堂院(朝廷の公式行事、政務、儀礼が行われる空間)、「朱雀門」(宮の正門)が一直線に並びます。中国の都をモデルにつくられ、今までにない大規模な「宮」として計画的に建設されたと言われています。
前期難波宮の終わり
653年、政権内で対立が起こり、孝徳天皇は難波宮に残り、中大兄皇子らは飛鳥に戻ります。翌年、孝徳天皇が死去すると、655年に中大兄皇子の母である斉明天皇が即位し、都は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)に戻りました。
その後、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)、壬申の乱(じんしんのらん)などの激動の時代を経て、天武天皇の時代となります。天武は飛鳥と並んで、難波も都とさだめたのですが、686年に「大蔵省(おおくらのつかさ)」という役所から出火し、宮全体に燃え広がり難波宮は焼失してしまいました。
後期難波宮は奈良時代、726年から聖武天皇が藤原宇合(ふじわらのうまかい)に命じて、前期難波宮と同じ場所に建設されました。当時の聖武天皇の本拠は平城宮だったので、出来上がった難波宮は副都だったと考えられます。聖武天皇は平城京から恭仁京、紫香楽宮へと遷都を繰り返しますが、一時、難波宮も正式な都とされた時期があります(744年)。
大極殿(だいごくでん)が建造された後期難波宮
天皇が出御する場である大極殿は、藤原宮(694-710年)の時代に内裏から独立して、宮殿の中でもっとも重要な建物となりました。
現在、難波宮史跡公園では大極殿の基壇が原寸で再現され、その上に建っていた建物の内部は、大阪歴史博物館の10階に原寸で再現されています。
桓武天皇の時代、平城京から長岡京に遷都します。その際、難波宮の資材を解体し運び、それを再利用して長岡宮は作られました。後期難波宮は、長岡宮として生まれかわったのです。
大阪歴史博物館 アクセス情報
住所
大阪府大阪市中央区大手前4丁目
1−32
交通アクセス
Osaka Metro谷町線・中央線「谷町四丁目」
駅 2・9号出口
大阪シティバス「馬場町」バス停前
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